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あれから20年・・・(その2)

2005年08月13日 21:00

曇りのち晴れ

20年前は叔父の理容店で働いていて、この年、つくば市で開催されていた科学万博で日本航空の出展していたHSST(超高速磁気浮上式鉄道)試験車輛に乗ったりしていました。
HSSTの軌道は短く(100メートルもありませんでした)、低速での運転でしたが、わざと左右のコイルが励起する時間差をつくり、浮上・着地(?)するのを判るようにしていたのが楽しかったんですよね。

8月12日は月曜日でした。
店は定休日で休み、私は叔父と一緒にTV初放映される『東京裁判』の前編を楽しみにしていました。『東京裁判』は時間が長いので、前後編の2部放送の予定でした。

19時を過ぎた頃になって、ニュース速報のテロップが流れました・・・「日航123便、行方不明」と。
「エェッ!?」 「NHKだ!NHKに変えよう」 「NHKだね?」 「NHKは柳田(邦男)さんが出るからな」
こんな会話をしていました・・・もう『東京裁判』どころではありません。すぐにチャンネルをNHKに切り替えたのです。(結局『東京裁判』は後日に延期となりました)

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NHKでは「NHK特集」を打ち切り、ニュースを始めたところでした。
まだ情報の整理確認が出来ない状況下で、判っている範囲でのニュースがキャスターの木村太郎さん(当時)によって伝えられていました。しかし情報は錯綜するばかりです・・・時々民放に切り替えてみたんですが、どの局も似たようなものでした。

そして21時、木村さん本来の受け持ち番組であるNHKニュースの要石「NC9(ニュースセンター9時)」が始まりました。そして日航機行方不明のニュースについて解説をするために登場したのがNHK解説委員で航空事故などに詳しい柳田邦男さんだったのです。

翌8月13日朝のNHKニュースで中継のヘリから、まだ残骸が燻っている事故現場の模様を見た時は、あまりの惨状に叔父と絶句しました。もちろん、一たび航空機の墜落事故が起こると、どういう状況になるかは、昔の事故の写真などから分っていましたが・・・何処かに言葉を置き忘れて来たような、悪い夢がまだ続いているような、虚ろな感覚でした。

そして12日からかなりの期間、柳田さんは「NC9」に出ずっぱりになります・・・レーダーに残された日航123便(JA8119号機)の航跡、ヘリコプターで123便の航跡を辿ったレポート(後述)についての解説、公開されたボイスレコーダーやフライトレコーダーについての解析、などなど。
やはり昭和41年(1966年)2月の「全日空B727型機羽田沖墜落事故」、同年3月の「カナダ太平洋航空DC8型機羽田着陸失敗事故」と「BOAC/イギリス海外航空(英国航空の前身)B707型機富士山上空空中分解事故」を皮切りに、航空機事故や鉄道事故、装置産業での様々な事故を取材し続けて来ただけの事はあります・・・専門用語も素人にも解りやすい説明を交えて解説していました。

また、柳田さんが「週刊現代」や「週刊文春」などの週刊誌に掲載した「日航ジャンボ機墜落事故」に関する見解と解説の記事も読みました・・・それらの記事は他の様々な事故の事例と教訓と一緒にまとめられ、昭和63年(1988年)7月に「死角 巨大事故の現場」として新潮社から出版されました(この本は今3冊目がボロボロになっています)。

事故の翌日、NHKのカメラマンが取材したJA8119号機のレーダー航跡を元にヘリコプターで推定コースを辿るレポートが放送されました。これを録画したものを叔父と、叔父の中学以来の友人でパイロットのK上さんと3人で見たのですが、K上さんは「油圧が駄目になったあの巨体をよくここまで持たせたものだ・・・」と絶句したものです。

後にボイス・レコーダー(CVR)の記録が文書で公開されました。墜落の約6分前に高浜機長が「どーんといこうや」と言っている事にマスコミが猛烈に批判しますが、柳田さんの反応は感情論を排した、全く別次元のものでした。K上さんも「高浜さんはふざけて言った訳じゃない。もう残された手段がないから、きっと高浜さんたちは不時着を考えていたんだよ」と・・・私も同感でした。

当時は写真週刊誌が全盛で、各誌ともこぞって多数の契約カメラマンを事故現場に向かわせ、生存者の救出の様子や、酷い状態の遺体の写真を掲載し、販売部数競争をしていました。
それに負けじと新聞社の取材陣やTV局のレポーターと取材陣が醜い取材合戦をしていた事をよく憶えています。この年起こった豊田商事の永野会長刺殺事件からマスコミのモラルが議論されていたのに、呆れたものです。

昨12日は多くのTV局が「日航ジャンボ機墜落事故」20周年特番を組んでいましたが、私はTBSの「ボイスレコーダー ~残された声の記録~ ジャンボ機墜落20年目の真実」に注目し、番組を見ていました。
やはり・・・と言うか・・・実際のボイス・レコーダーの記録部分では涙が溢れてしまいました。高浜雅己機長(CAP)、佐々木祐副操縦士(COP)、福田航空機関士(F/E)の3人が、絶望的な状況下でもなお、乗客を無事にランディング(着陸)させたいと必死の努力をする姿が目に浮かぶからです。

色々な航空機の雑誌や書籍、それに柳田さんの著書を読んでいるので、コクピットに響き渡る警報音の意味が解るだけ、見ていて辛かったです。
録音の最後の方にある「シンクレイト(SINK RATE)」と、その後何回も聞こえる「プアプア(WHOOP WHOOP) プルアップ(PULL UP)」と言うのはGPWS(Ground Proximity Warning System:対地接近警報装置)による警報で、「降下率過大」と「プアプア 機首を上げろ」と言う意味なんです。でも、もうそんな事は出来ない状況だったのに・・・もう涙が止まりませんでした。

そして同じ12日・・・日航グループ・JALウェイズ85便(DC10型機)が福岡国際空港からホノルルに向かうべく離陸した直後、第1エンジンから出火(異常燃焼と思われます)、タービンブレードの破片が福岡市北区などに多数落下して、2人が軽症を負う事故がありました。
空の安全を改めて誓ったその日に、墜落を免れたとは言え事故を起こすとは。事故後の対応も拙いし、123便の教訓は何だったのでしょう?

日本航空グループには猛省と、更なる安全運行の徹底を望みます。

関連記事:
「あれから20年・・・」(2005年08月12日)
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