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撮影ポイントの史実

2011年03月10日 22:22

晴れ時々曇り
画像は東京スカイツリー言問橋です。
言問橋とスカイツリー(2010年12月)
↑ 言問橋とスカイツリー (CX1)
昨年12月に撮影したものです・・・本当は先日スカイツリー撮影に行った時に撮りたかったんですが、浚渫工事用台船が係留されていて、クレーンのジブなどで言問橋の全体がよく見えないから撮ってないんですよ。
「戦災により亡くなられた方々の碑」 ← 慰霊の碑
   (CX1)

今日は昭和20年(1945年)3月10日未明の東京大空襲の記念日。
祖父は私が小学2年生の頃に事故で歿ったので、祖父からは戦争体験は殆ど聞いた事がありませんでしたが、今は亡き祖母や大叔父たちから、折に触れて聞いて来ました。

私の祖父の兄(大伯父)は、この東京大空襲で歿ったんですよね・・・大伯父の遺体が発見された場所は言問橋付近で、祖父の弟(大叔父)が見付けたそうです。
詳しい遺体発見場所は、大叔父も良く分からなかったようでした。
碑文
碑文 → 
(CX1)
     
台東区浅草7丁目の台東区立墨田公園に入ってすぐの場所にある「戦災により亡くなられた方々の碑」は、終戦から41年目の昭和61年(1986年)3月に建立された石碑です。
碑だけの高さは1mもないでしょう・・・しかし碑文の「あゝ 東京大空襲 朋よやすらかに」には、この地で犠牲になり、荼毘にふされ、仮埋葬された人々への鎮魂の願いが、「とも」「友」ではなく「朋」とした事によって、端的に表れていると思います。
ご意見、ご感想はこちらへどうぞ!
 ← 台東区側の「ことといはし」銘板
   (CX1)

現在は隅田川の下流・東京湾側から数えて14番目(鉄道専用橋などを除く)になっている言問橋は、関東大震災復興事業の一環として「竹屋の渡し」(『待乳の渡し』とも)の場所に昭和3年(1928年)に架けられた橋で、今も当時の姿と殆ど変わっていません。
隅田川テラスに下りて眺めると、前出の画像の通り、緩やかなカーブがかかった綺麗な上路式鉄橋、というイメージを持つ人も多いと思います。
しかし東京大空襲では、この言問橋周辺は阿鼻叫喚の地獄と化したのです。
欄干の親柱 今も残る黒い染み
↑ 親柱の染み (CX1)
「ことといはし」の銘板がある墨田公園上に見える親柱は、全体的に黒い染みがあります。
この染みは、焼夷弾による火災で、炎に酸素が奪われた為の酸欠による窒息死した後に、劫火で焼かれた人たちの脂が焦げた跡なんです・・・この事実を知ったのは、30年近く前のNHKラジオ番組でした。
何度も通っている国道6号線言問通り(都道319号線)として、隅田川の東西を結んでいる言問橋に、そんな事があったとは。
その日のうちに、祖母にラジオ番組の話題を話したところ、大伯父に当たる祖父の兄が言問橋で死んだ事、遺体確認は祖父の弟(大叔父)がした、という話を聞かされた・・・という訳です。

それまで祖母からは、2年前に生まれていた母を負ぶって、江戸川土手から燃え盛る東京と轟音をたてて飛行しながら焼夷弾を投下するシルエットのボーイング B-29 スーパフォートレスの大編隊を、近所の人たちと呆然として眺めていた・・・という話だけしか聞いてませんでしたから、ちょっとしたショックでしたね。

大伯父の遺体発見場所が、せめて浅草区側(現台東区)か向島区(現墨田区)だったのか、現場を見て来た大叔父の記憶を頼りに探そうと思っていたのですが、祖母が病没した数年後、大叔父も癌で逝ってしまいました・・・結局、遺体発見場所は不明のままです。
言問橋西詰めから
↑ 言問橋西詰めから見るスカイツリー (CX1)
言問橋は平成に入ってから改修工事が行われ、戦災時の古い欄干縁石が現在のものに変わりましたが、江戸東京博物館には、古い欄干縁石の一部が展示されています。

私は言問橋の周辺からスカイツリーを撮る時には、影前か撮影後に「戦災により亡くなられた方々の碑」に手を合わせています。本当はお供え物をしたいんですが、浮浪者に食べられちゃうのが癪なので、お供えはしていません。
※この記事は書きかけです。タイトルや内容その他が変更される可能性があります。
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