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雫石事故

2010年07月30日 23:00

雨のち曇り
もう、すっかり忘れ去られてしまった感がありますが・・・

昭和46年(1971年)の今日(7月30日)は、岩手県岩手郡雫石町付近上空で、航空自衛隊(JASDF/Japan Air Self-Defense Force)ノースアメリカン F-86F戦闘機(製造番号92-7932)と接触した全日本空輸(全日空)58便(札幌発羽田行き、ボーイング727-200型機、機体番号JA8329)が空中分解して、雫石町に墜落した全日空機雫石衝突事故、所謂「雫石事故」が発生した日です。
※以下、航空自衛隊を「空自」と略す場合もあります。

千歳空港を13時33分(定刻は12時45分)に離陸した全日空58便は、13時46分に函館NDB(Non-Directional Beacon:無指向性無線標識)を高度22,000フィート(約6,706m)で通過して、高度を28,000フィート(約8,534m)に上げて、航空航路「ジェットルートJ11L」を自動操縦で松島NDBに向かう途中でした。
全日空58便は、計器飛行方式の承認を得て13時46分に千歳空港を離陸後、J10Lで函館NDBを通過、その後はJ11Lで松島NDBを目指し、J30Lで大子NDB、J25Lで佐倉NDB及び木更津NDBを経て、東京国際空港(羽田)に到着する予定でした。

一方の自衛隊機は、訓練生2等空曹が搭乗。
教官1等空尉の随伴で航空自衛隊松島基地を13時28分に離陸しました。
当日に教官臨時設定された秋田県横手市付近上空訓練空域に向かうべく、急速に高度を上げます。そして、予告なしに教官機進路変更訓練生機が等間隔で追尾する、実戦形式の訓練を開始しました。
ご意見、ご感想はこちらへどうぞ!
事故は14時02分頃、雫石町上空付近で発生しました。
岩手山上空付近訓練空域太平洋側に変更しようと旋回した教官機の後を追った訓練生機が、教官の回避命令回避行動を開始しますが、手遅れでした。回避運動中背面飛行状態になった訓練生機右主翼が、全日空機水平安定板(所謂『水平尾翼』)の左前縁と接触します。
全日空機操縦不能のまま高度を失いつつ音速を突破した為に、機体空中分解して墜落、乗員7名(機長、副操縦士、米国人航空機関士、客室乗務員4名)と乗客155名、合計162名全員が地表に激突して死亡しました。
富士山特有の山岳波によるCAT(Clear Air Turbulence:晴天乱気流)との遭遇で発生した、BOAC機空中分解事故(昭和41年/1966年03月05日)の犠牲者たち同様、乗客たちは空中分解する機体から次々と落下して行ったそうです。
この他に、落下した全日空機の車輪の一部が民家を突き抜けて、お婆さんが怪我を負っています。
訓練生機2等空曹は脱出して無事でしたが、機体空中分解して墜落しました。

実際のところ、衝突の事実以外の原因は不明と言った方がいいと思います。
なにしろ、当時の日本の空は、レシプロ(プロペラ)旅客機ジェット旅客機が混在して飛行していた上に、航空管制レーダー網の整備も不十分。
しかも空自訓練空域と、民間航空航路の設定が明確に区分されていない状況だったのです。

ただ、現在客観的に語れる事としては・・・

■事故当日は抜けるような晴天だった事。
自衛隊機全日空機を視認して、回避行動を開始したのが、事故の約2秒前だった事。
自衛隊機全日空機の進路方向に回避した事。
全日空機自衛隊機に追い付く形になった事。
■双方の速度は自衛隊機が約840km/h、全日空機が約900km/hだった事。
■衝突時の高度は、約28,000フィート(約8,534m)だった事。
松島NDBに向かっていたはずの全日空機が、本来のJ11Lから約12kmほど内陸部に逸脱していた事。

・・・などです。
全日空機J11Lを逸脱していた点は、事故後10年目に裁判で全日空側が証拠品として提出した乗客の遺品の8mmカメラのフィルム中に、正規ルートなら撮影出来ないはずの田沢湖が写ったコマがあった事から判明しました。

事故機のボーイング727-200型機は、垂直安定板(垂直尾翼)の上の高い位置にある水平安定板(水平尾翼)とがT字形に見える「T字翼機」で、エンジン機体後部左右(第1、第3)と、垂直安定板基部(第2)にあります。
当時は機体のスマートさや主翼後退角、高い位置の水平安定板、離着陸から経済的な巡航高度への上昇・降下の性能(上昇率/降下率)が優れているという点がウリでした。
しかし主翼後退角が大きく、グランドスポイラーを立てると気流が乱れて、左右のエンジン異常燃焼を起こすという欠点がありました。
これは全日空機羽田沖墜落事故の一因と考えられる事になったのですが、雫石事故には関係ありません。

一方のノースアメリカン F-86F「セイバー(Saber)」の愛称を持つ、ノーズインティーク式第1世代ジェット戦闘機です。
日本では昭和31年(1956年)から三菱重工がライセンス生産して「旭光(きょっこう)」の愛称が与えられました。
主翼後退翼を採用して、速度と旋回性能を高めていて、主武装は機首の12.7mm機関砲6門。1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争では、中国人民解放軍MiG-15との空中戦で、大きな戦果を上げています。
後に赤外線誘導式ミサイル(AIM-9サイドワインダー)を装備するようになりました。
怪獣映画では昭和29年(1954年)11月3日公開の『ゴジラ』から登場している、怪獣ファンにはお馴染みの戦闘機ですが、この年が空自の発足年というのは、案外知られてなかったりします。

事故当時の報道を読むと、結局のところ、雫石事故マスコミ自衛隊ネガティブキャンペーンの題材に利用された感が拭えない気がします。
全日空機が全員死亡したのに、自衛隊機2等空曹が脱出して無傷だった点も叩かれる対象になりましたし、当時の防衛庁空自幹部の発言(中には不用意なものもあったようです)も、揚げ足取りに利用されています。この辺り、日航123便墜落事故「オレンジ色の塗料」「標的機として誤射」などに通じる、キナ臭いものがありますね。

因みに、事故のあった昭和46年(1971年)07月当時、日本の空は日本航空全日空東亜国内航空航空3社の合計で、1日当たり655便。座席数は73,292席でした。
そして前述の通り、航空自衛隊在日米軍訓練空域と、民間航空航路との明確な線引きもありませんでしたし、空自や米軍側は臨時で訓練空域を設定出来ました。
また、航空管制レーダーのカバー出来る範囲は狭く、航法支援装置地上設備も欧米に比べてずっと立ち遅れた中で、パイロットたちは飛んでいた訳ですから、こうした空中衝突事故が起こらなかったのが不思議なくらいです。
ニアミスコンフリクションは度々報告されていました。

雫石事故の後から4年経った昭和50年(1975年)07月になって、やっと航空法が改正され、日本国内を飛行する自衛隊機も含む航空機には、様々な義務付けがなされますが、これはまた別のお話です。
※この記事は書きかけです。タイトルや内容その他が変更される可能性があります。
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